寝返りの際の固い床の感覚でふっと目が覚めた。緩慢な動作で道長が体を起こすと、周りには同じように床で雑魚寝している同僚が散らばっている。それなりの規模の現場で仕事が終わった打ち上げの何次会だかで、職場の先輩の家で飲んでいたのだ。ベランダに目をやれば窓ガラス越しに煙草の火がちかちかと光って見えた。おそらく家主の先輩だろう。
そのまま寝直す気にもなれず、夜風に当たってきますと窓越しに声を掛けるとひらひらと手を振られた。周囲の同僚たちを踏まないように慎重に歩いて玄関から外に出る。
昼間に比べれば過ごしやすいが風はまだまだ生温い。ちょうどよく自販機に行き当たったので喉でも潤そうと小銭を投入してから、何を飲もうかと道長は指と視線をさ迷わせた。酔って寝落ちた後の頭が妙に働いてない感覚が首から上に蟠っている。自分の状態をぼんやり点検してみると、腹も空いている気がしてきた。さっさと先輩の家に帰って残ったつまみを食べてしまおうか?スナック菓子なんかはもう湿気てしまっているだろうが。
「あー……」 「ラーメンでも食うか?」
唐突に左斜め下から掛けられた声に驚いて思わず飛びのく。その拍子に指がミネラルウォーターのボタンにちょいっと触れて、遅れてペットボトルの落ちる音が派手に響いた。自販機の明かりの中でいつの間にか英寿がしゃがみ込んでいる。いつぞや化けて出てきたときのタキシードではない、ごくごく普通のシャツとスラックスだが、スポットライトに照らされた舞台俳優のようにいやに眩しい。寝ぼけていた道長の意識をすっかり覚醒させてしまうくらいには。
「……ギーツ、深夜に化けて出んじゃねえ!気味悪い」 「まあそう言うな。どうだ?この先にいい屋台がある」
取り出し口から引っ張り出したペットボトルを手渡しながら英寿が笑う。その顔はしばらく前に一緒にすき焼き鍋を食べた時とそう変わらないように見えて、これで神になったと言うのだからいまだに狐につままれたような気分になってしまう。
「持ち合わせがねえんだよ」 「奢ってやる。神様だからな」 「神関係ねえだろ……」
踵を返した英寿の後に渋々ながら道長も従った。悪態を吐きながらついて行った先には本当にラーメンの屋台があって、勝手知ったると言わんばかりに暖簾をくぐる英寿に続いて垂れた布をめくる。寸胴で煮込まれているスープの濃厚なにおいが鼻をくすぐった。
「とんこつ2つ」
英寿の注文に頑固そうな店主が頷く。その様子から何度も来たことがあるのだろうと窺えた。道長が出された水を喉に流し込んでいるうちにラーメンがみるみる出来上がっていく。そういえば味の要望を訊かれなかったが、奢ってもらう立場なのでまあそこはいいだろう。実際にラーメンが目の前に出ると、さっき自覚した食欲もあって自然に箸に手が伸びた。
2人分のいただきますの声と手を合わせる音が揃う。勢いに任せてラーメンを啜れば、塩気の強い味が眠りから覚めたばかりの体に染み渡った。
「うまいだろ」 「ああ」
短い賞賛の言葉と食べる勢いに店主が満足そうに笑っている。ついでに英寿も満足そうな顔に見えた。夢中でずるずると麺を啜る音が静まり返った深夜の空気へ漂っていく。
「次はタイクーンあたりも連れてくるか」 「そうだな」
軽い調子でこぼされた英寿の提案に、道長も軽く答える。意外な答えだったのか、横目に見る英寿の手が止まった。きょとんとした表情が珍しくて、ああこんな風にいっぱい食わせてやれたこともそんなになかったなとなんとなく思った。少し癪で、少しだけもやもやと――物悲しい気持ちが胸に落ちる。
「もう敵じゃねーんだ」
英寿の形のいい額を指で弾く。そこには確かに肉体の感触があって、さすがは「いま会える神様」だった。
(初稿:2024-10-11)