”人生を左右する試験”ならつい数年前にも経験しているはずなのに、いざ似たようなものを目の前に捉えると前はどうやって乗り切ったのか思い出せない。小目標はしっかりと定めてこなしていってはいるが、全体として自分がどこまで進んでいるのかの実感が湧かないのだ。景和は中空を搔いていたシャープペンシルを置いて一度大きく伸びをした。ずっと同じ姿勢で居たため凝り固まっていた肩がぱきぽきと音を立てる。雑に置いた分厚い参考書がバランスを崩してぱたりと閉じた。  大学生としての生活で遊んで暮らしていた訳ではないし、ようやく定まった目標に対して弛まず歩み続けたいという意志は確かなものだが、どうしても停滞する瞬間はあるということだろう。試験勉強というものは孤独で、自分自身を見つめなければいけない時間が多く、息が詰まる。

残暑がなかなか過ぎ去ってくれない中、今日は適度に風もあってカフェテラスでの勉強も快適だった。時計を確認すれば昼飯時が近づいていて、ほかの席を見渡すと自分以外にも客が増えてきたのがわかった。ランチに何か注文して、食べ終わったら午後は気分を変えて大学の図書館で勉強でもしようかと、メニュー表に目を落とす。

「捗ってる……ようには見えないな?」

頭上から降ってきた声に景和が弾かれるように顔を上げると、目の前にずいっと黒い液体が入ったグラスが差し出された。この席を陣取る時に買ったアイスコーヒーのグラスはすっかり空になってしまっていたので、おかわりも頼まないといけないなとなんとなく思っていた矢先だったので驚いてしまう。

「差し入れだ」

おそらくアイスコーヒーのグラス越しに英寿と目が合う。景和が苦戦している様子をからかうみたいにニヤリと笑みを浮かべていた。そんな表情で確信するのも妙な話だが、幻覚だとか他人の空似だとかではなく、まぎれもなく浮世英寿だった。大きなパラソルが覆う日陰の下で、グラスに纏わりついた水滴が存在を主張するようにきらりと光っている。

「……ありがとう」

両手で捧げ持つように英寿の手からグラスを受け取る。こういうものを何と言うのだったか。いまの英寿は神様だから、お供え物の逆?

「俺も一緒にランチにするか。お前は何にするんだ?」 「あー、適当に、Bランチのガパオでも……」 「じゃあ俺も同じく」

英寿が軽く手を挙げ、店員を呼び止めてオーダーする。軽くお辞儀して去っていく店員を見て、そういえば英寿はもう世界的スターでないからいるだけで騒がれるほどの存在ではなくなったのだと実感した。出会った時と場所が究極の非日常だったからか、日常生活の中にいる英寿を見るのはまだ慣れない。端から見れば、カフェで勉強中の大学生のところにその友達が世間話をしに来たようにした見えないのだと思うと、不思議な感覚だった。周囲からチラチラと視線は感じるので、容姿は相変わらず目を惹くものなのだろうけど。

景和がぼんやりと考え事をしているうちに、英寿はテーブルの上にうず高く盛られた参考書を手に取ってしげしげと眺めている。英寿と参考書なんて組み合わせ、少し前では考えたこともなかった。英寿だって学生だったころもあるはずなのに。

「英寿は学生のころ勉強できた?」 「苦労した覚えはない」 「だよねえ」

予想通りの答えに納得してため息をついた後、景和はストローからコーヒーを一口吸い上げた。冷たさとすっきりとした苦みがさっきまでのもやもやとした気持ちを洗い流していく。

「……浮世英寿としては、高校の頃にデザグラに参加して以来学校の勉強も受験もしていない。大学にも行ってないしな。お前の方がよほど真面目に勉学に取り組んでるよ」

自嘲気味に笑った英寿の顔が妙に腑に落ちない。

「でもそれは、人知れずジャマトと戦ってたからだろ?」 「私情でな」 「それでも……それでも、だよ」

軽妙で斜に構えた態度で覆われた英寿の心は、自らの願いと世界の平和のために命を懸けて戦っていたことには違いないのだ。今の景和にはそれが分かる。それが伝わればいいなと思ってまっすぐに見つめれば、英寿が少し照れ臭そうに目線を反らして鼻を掻いた。

「とにかく――大丈夫だ。不安になることもあるだろうが、お前なら成し遂げられる。だから励め」 「うん。ありがとう、英寿」 「それに、採用試験に受かったら祝賀会で深夜ラーメンだ。バッファもナーゴも張り切ってる」 「どういう話の流れでそうなってるの?」 「そこも含めて話をするために来たんだからな」

ちゃんと受かれよ?と軽く圧をかけてくる英寿の後ろに、二人分のランチを運んでくる店員の姿が見える。景和は慌ててテーブルに散らかった参考書をまとめて、カバンに突っ込んだ。